オリンピック開催の是非

長引くコロナ禍で混乱する社会ですが、いかがお過ごしでしょうか。

 

連日、誰のために開催されるのか分からないオリンピックについての議論がメディアを賑わし、無責任なコメンテーターやテレビマンたちが好き勝手な持論を展開していますね。

 

経済のため、アスリートのため……本当にそうなのでしょうか。今回は、せっかくなので私も持論をお届けしたいと思います。

 

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本来のオリンピックとは

まず、オリンピックとは、古代オリンピックと近代オリンピックという形で二分されます。

 

ギリシャ神話をモチーフに神聖なる競技祭というスタイルで、期間中は戦争をせず、世界中が競技を楽しもうというものが古代オリンピックです。

 

そして、それを復活させようというフリーメイソン所属のピエール・ド・クーベルタン男爵の声かけによって、1986年に始まったものが近代オリンピックと呼ばれています。当初はアマチュアアスリートの祭典のため、資金集めに苦労しながらの開催でしたが、回を重ねるごとに万物博覧会とのコラボ、政治、企業とのコラボなどによって、規模を大きくしていったと言われています。

 

二度の世界大戦やその他の政治的トラブルなどにより、平和の祭典という言葉だけが先行する世界規模の商業イベントとなっている印象すら受けますね。

 

本来の意味を追求するのであれば、現在も紛争が続くガザ地区やミャンマーなどへの介入、及び停戦、終戦のメッセージを強くする正しいと私は考えています。

アスリートファーストという綺麗事の危険性

オリンピック賛成派はこぞって言いますが、「アスリートのためにやるべきだ」という言葉、疑問に感じませんか。

「この日のために、アスリートは頑張って来た」

印籠のように飛び出す言葉ですが、私は尋ねたいのです。頑張っているのはアスリートだけですか、と。

 

私は失業から自己破産、見事にコロナセーフティネットを全てすり抜け、財布も生活も苦しい中、コロナ禍という風評に加えて、実害に怯えて日々を過ごしています。

私だけではありません。アスリート以外の皆さんは、多かれ少なかれ、同様にそれまでの日常より大変な目に合っていると思います。

 

何が言いたいのかと言いますと……

「アスリートじゃなくても、頑張って生きてるんです」

という事です。

 

四年に一度だから貴重だと言いたいのかもしれませんが、普段の毎日だって貴重です。明日、大切な人と死に別れるかもしれないのです。

 

去年の時点で、オリンピックは諦めていれば、日本はもっと被害が少なかったと思います。

 

という訳で、私の開催に対して否定派としての一つのメッセージでした。